繊細な人向けの文章とかで、「誰も自分には興味がないし、誰も見てないから、自分の好きに生きよう!」みたいなのを結構見かける。
Twitterではこういうメッセージにいいねが何万とついていて、それが説得力を持たせている気がする。
けれど、私はこの文章に傷ついた側だ。
もしかしたら、同じように傷ついたり違和感を覚えたりする人がいるかもしれないと思い、どうして傷ついたのかを言語化していく。
誰も自分には興味ない?
「誰も私には興味がない‥」
私がこれに傷ついたのは、誰も自分には興味ない=私はいらない人間だと思ってしまうからだ。
この言葉に安心するのは、“やっとの思いで外出したけど服装が変じゃないだろうか、歩き方が気持ち悪くないだろうか、顔がブサイクだから笑われるんじゃないか?”
とかそういう不安に駆られてしまう場合だと思った。(私にはよくある)
もっとハードルを下げれば、周りの目を気にして好きな服を着れないとか、世間体を気にして本当にやりたいことができない。という人もあてはまるのでは。
他の記事でも書いているが、私はどうやら人に見捨てられることが怖い。
恐れをベースに人間関係を構築している。
だから、誰も自分に興味がなくなってしまったら、自分は自分でなくなるのだ。
今これを書いていて、少し極端な気もしてきた。たった一言に振り回されている。
ここでいう「誰も」とは誰なのか
私はいま、家族や友人、職場の人に見捨てられたくない。少しでも自分に関心を持ってほしい。
けど、それが前提で「誰も興味ない」と言っているのであれば、その誰かはすべて関わりを持たない他人ということだろうか?
もしそうなら、そんなに傷つく必要はなかった。
たまたま電車ですれ違った人に興味を持たれなくていいし、よくいくコンビニの店員さんにも興味を持ってほしいとは思わない。
ここまで考えて、やっと理解できた。
じゃあ自分の好きってなんだろう
せっかくなので、好きに生きるについても考えたい。
私が好きに生きるとしたら、こうして文章を書くことで食い扶持を稼ぎ、もっと広い家で1人暮らしをしたい。
正社員にしろだの派遣はだめだの外野はうるさいが、私はこれで生きていきたい。
繊細と言われる人の中には、自分の好きなことがわからない人もいるだろう。
たぶんそれは、無意識に周りの目や反対を気にして言えないんだと思う。
それか、家庭で好きなものをバカにされたり認められなかったりした経験から、本心に何重にもカギをかけてしまっているのかもしれない。
自分の本心なのに、他者からヒントを与えられないとなかなか見つけられないこともある。
私は「本心がわからない」なんて相談を出来る人がいなかったから、心に関する本をいろいろ読んで「自分の好き」に正直でいるためのトレーニングをしている。